芸術家のくすり箱は、ダンサー・音楽家・俳優・スタッフの「ヘルスケア」をサポートし、芸術家と医師・治療師・トレーナーをつなぐNPOです。
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こころのコンディショニング〜メンタルヘルスとは〜

メンタルヘルス[オーケストラ編]

 21世紀に入り、干支一回りが経過しました。この12年間だけでも、経済や社会情勢の変化に伴い、私たちを取り囲む環境は様々に、大きく変わってきています。ライフスタイルや人との繋がり等も変わりつつあり、芸術家を含めた様々な職業の果たす役割や活躍の場も多様化してきていると感じます。この中で、働く人のメンタルヘルス=心の健康問題にも注目が集まってきました。芸術を生業とする方々と一般的な会社員とは、労働環境、求められる結果や対価等も大きく異なるものと思いますが、自らの仕事を通じ社会に貢献する一社会人として、不安や悩み、ストレスをかかえる点では同じです。その私たちにとって、今やメンタルヘルス問題は軽視すべからざる問題となっています。

働く私たちとメンタルヘルス

働く人のメンタルヘルス問題が注視されてきた背景要因には、1991年のバブル崩壊以降の雇用削減や一人当たりの業務量増加、評価制度や雇用形態の変化など、社会情勢と労働環境の絶え間ない変化が挙げられます。厚生労働省が5年毎に実施している「労働者健康状況調査」の2007年(平成19年)の結果では、「仕事や職業生活に関する強い不安・悩み、ストレスがある」と回答した人の割合は58.0%と6割弱に上り、また、業務を要因に精神疾患を発症したとする労災申請の件数も1999年以降増加の一途を辿っています。

組織におけるメンタルヘルス対策

 国もこれらの状況を鑑み、単なる個人の問題ではなく組織的に対応すべき問題として様々な施策を行ってきました。その一つとして、メンタルヘルス対策の指針に挙げられているのが「4つのメンタルヘルスケア」です。

4つのメンタルヘルスケア

  • セルフケア
  • ラインケア
  • 事業場内産業保健スタッフ等によるケア
  • 事業場外資源によるケア

厚生労働省『労働者の心の健康の保持増進のための指針』より

 企業や自治体におけるメンタルヘルス対策では、これら4つのメンタルヘルスケアを継続的、計画的に行うことが望ましいとされていますが、オーケストラも人の集まる「組織」である以上、その特殊性は考慮しつつ、団員それぞれの健康について組織的に考えていく必要があるかもしれません。なお、4つのうち、「ラインケア」(当事者と日常的に接する管理監督者が心の健康に関して職場環境等の改善や当事者からの相談対応を行う)は、メンタルヘルス問題の早期発見、早期対応をはかる施策として重点的に推進されています。
オーケストラで仕事をすることは、いわゆる管理職と部下という関係の中で働くこととはニュアンスが違うかもしれません。しかし、行動をともにする時間も多く協同的な仕事であるオーケストラでは、お互いの様子に気を配るという点で、このラインケアも目を向けたいポイントといえます。

メンタルヘルスに重要なソーシャルサポート

 オーケストラのような組織では、「管理」という形ではなく、仲間同士で互いに気を配り声を掛け合うことが、現実的なメンタルヘルスケアの一つと言えるでしょう。実はこの声の掛け合いは、ソーシャルサポートと呼ばれます。ソーシャルサポートは幾つかに分類されますが、中でも肯定的な関心を示し自己肯定感を高めるとされる情緒的サポートには、メンタルヘルス上重要な役割が期待されます。情緒的サポートとは、具体的には、例えば「相手に関心を示す」「肯定する」「励ます」「慰める」「傾聴する」などの共感的な行動のことです。具体的に分かりやすいサポートではないかもしれませんが、周囲が受容的であることで気持ちが安定するという、ある意味で心身の健康の土台となる効果をもたらすものです。実際には、お互い励まし合ったり、元気のなさそうな時に声をかけたりと、皆さんが普段から行っていることも多いでしょう。

心配だなと思ったら

 しかし普段から気をつけていても、人生の中で、時としてメンタルヘルス問題を抱えざるを得ないこともあるでしょう。そのような時、私たちはつい自分だけで抱えてしまいがちです。ここで周囲も気づいて声をかけ、本人が助けを求めるきっかけとなることができれば、早期の対応や改善につながる可能性は高くなるといえます。その際、どんな時に気を付ければよいかわからないという向きもあろうかと思います。そこで、特にメンタルヘルスに関して起こり得る変化を以下に記しておきます。ポイントは、いつもその人と違う様子に注目する、ということです。

こんな様子がみられたら迷わず声かけを

  • 遅刻・早退・欠勤が増える
  • 休みの連絡がない(無断欠勤がある)
  • 仕事の能率が悪くなる。思考力・判断力が低下する
  • いつもと同じ結果がなかなかでてこない
  • 報告や相談、会話がなくなる(あるいはその逆)
  • 表情に活気がなく、動作にも元気がない(あるいはその逆)
  • ミスや事故、不自然な言動が目立つ
  • 衣服が乱れたり、不潔であったりする

 こうしたことが見られたら、上述したような普段からの声かけに加え、「いつもと違うから心配してるよ」などと話しかけることが大切でしょう。声のかけ方や内容には決まった法則があるわけではありませんが、一つの基本として、次のようなことを念頭に置いていただくと行いやすいのではと思います。

心配な相手への声かけの際の注意点

  1. 心配していること、気にしていることなど、相手への配慮や気持ちを伝える (心配している、良くなってほしい、という情緒的支援を伝える)
  2. ただし病気扱いや病気探しをする必要はない(知っている情報を伝えることが相手にとって必要なら伝えても構わない)
  3. 相手の様子で困ることがある場合、「私は困る」など主語を明確にして伝える (①とあわせて行うことが重要)
  4. 相手について心配に思うことは可能な範囲で信用出来る人と相談して対応する (一人で抱えないことが重要)

事例〜緊張を紛らわすためにお酒を乱用したAさん

 それでは、メンタルヘルス問題を抱えた演奏家の事例を、上述した声かけなども含めて、下記に見て行きましょう(個人が特定できないように背景は大幅に手を加えてあります)。

ヴァイオリン奏者のAさんは、元々対人関係が苦手でした。几帳面で演奏もきっちりすうる半面、対人関係でも「うまくやらなくては」という思いが強く、帰宅後はどっと疲れる毎日。そうした疲れを、Aさんはお酒を飲むことで紛らわしていました。オーケストラ入団後は人と接する機会が増え、またプレッシャーも更に大きくなり、特に演奏会終了後には緊張をほぐすため、これまでよりもより大量にお酒を飲むようになりました。入団3年目頃からは寝つきが悪くなり、昼間微妙に手が震えたり、嫌な感じの汗をかいたり、何となく落ち着きがなくなったりし、そうしたことを周囲からおかしいと思われたらどうしようと、余計にプレッシャーを感じるようになっていきました。
 4年目頃から、Aさんはアシスタントコンサートマスターから「最近元気ないし、妙に汗をかいてるけど、どうした?体調でも悪いのか」等とたびたび聞かれるようになりました。また、同じオーケストラ団員からは、「Aさん、最近音がぶれたりしていつものAさんの音と違う感じがする。どうしたの?心配してるよ」などと声をかけられるようになったのです。日ごろ演奏については話してもこんな話をすることはなく、こんな風に気にかけてくれていたことに、ついAさんは驚き半分、涙ぐんでしまいました。
 確かに最近、手指の震えのひどさや、疲れやすい自覚はありました。けれど、何人もの人が心配するのは、自分はどこかおかしいのかもしれない、何か病気かも、と内科を受診してみました。すると、肝機能障害の指摘に加え、思ってもみなかったことを医師から言われました。「アルコール依存症の可能性があります。専門機関を受診しなさい」。まさか自分が!Aさんは驚きましたが、確かに酒に頼りすぎたとの思いもあります。このままだと演奏活動にも支障が出ますよ、との言葉に、不安ながらもアルコール専門クリニックを受診することにしました。
 「アルコール依存症ですね」。アルコール専門クリニックの医師から、Aさんはこう言われました。医師からは、自分が飲める以上のアルコールを飲んできたことで脳に変化が起こり、上手にコントロールして飲めない体質に変わってしまったこと、今後は断酒しないと病気が進行しどんどん症状が悪くなってしまうという説明を受けました。酒を止めた方が良いのは良く分かります。一方、酒に頼らずにどうやっていけばいいのか分かりません。しかしこのまま放置すると演奏活動どころか命を落とす恐れもあるとのこと。何より音楽を第一にしてきた人生、演奏できなくなるなど考えられません。意を決して、医師に勧められた集団精神療法に参加することにしました。
 始めは半信半疑でしたが、断酒(アルコールを断つ)して元気にやっている人たちの話を聞き、励まされ、上手な断酒継続のコツなども教わり、Aさんは断酒を続けていきました。この頃には、昼間の手指の震えなどはおさまっていました。また同時に、カウンセリングの中でリラクセーション法や考え方の幅を広げる認知行動療法なども学び、これらの実践の中で、強かったプレッシャーも必要以上に大きく感じていたのだなと、徐々に冷静に考えられるようになりました。
 どうしても緊張が強い時は軽い安定剤を使って乗り切りました。その機会も徐々に減り、また不思議に人と接するのも楽になってきました。「スパルタ教育だった母親に相談しても、ともかく頑張りなさい!としか言われないのですが、テンパっている時に頑張れと言われてもそれ以上できないんですよね。練習をきちんとすることはもちろんですが、自分の考え方を変え、うまくいく時もあればいかない時もある、その時できることをやるだけ、ととなえることでだいぶ演奏が楽になってきました。あの時周りから声をかけられたことで、これはまずいと思えたのが今につながっていると思います。」とAさんは語っています。

 心のあり様が身体にも影響を及ぼすことはご存じのとおりと思います。心身の健康を維持・向上し、よりよいパフォーマンスにつなげるためにも、身体のみならず心の健康も、また自分だけでなく互いの健康も、同じく大切にしていただきたいと思います。

■執筆

梅澤 志乃(株式会社ジャパンEAPシステムズ 東北支社長 コンサルテーション本部 統括スーパーバイザー 臨床心理士)
東京家政大学大学院文学研究科心理教育学専攻修了。文学修士、埼玉県学校相談員、児童思春期精神科クリニックにて勤務の後、株式会社ジャパンEAPシステムズに入社。従業員のメンタルヘルス問題に関し、従業員、人事担当者及び管理職からの相談を受ける。「EAP」とはEmployee Assistance Program(従業員援助プログラム)の略で、企業や組織の従業員及び家族に対する総合的なカウンセリング・サービス。メンタルヘルス等の問題への早期対応により、従業員の業務パフォーマンス低下及びパフォーマンスを高めることを主な目的としている。http://www.jes.ne.jp/

米沢 宏(医療法人社団翠会 慈友クリニック院長 精神科医)
筑波大学医学専門学群・同大学院修了。医学博士。精神科専門医・指導医。認定産業医。臨床心理士。現在、心とからだの総合診療・慈友クリニックの院長としてアルコール問題およびうつ病の職場復帰支援のエキスパートとして治療にあたるほか、ジャパンEAPシステムズの顧問医として企業のメンタルヘルス相談活動を行っている。 http://www.jiyu.or.jp/

共同制作:公益社団法人日本オーケストラ連盟、NPO法人芸術家のくすり箱[2013.3作成]
※日本オーケストラ連盟ニュースvol.83(2013.3)に同記事が掲載されています