芸術家のくすり箱は、ダンサー・音楽家・俳優・スタッフの「ヘルスケア」をサポートし、芸術家と医師・治療師・トレーナーをつなぐNPOです。
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芸術家は歯が命!

芸術家にとって、美しい口元は豊かな表現力の源になるだけでなく、高いクオリティのパフォーマンスを支える重要な器官でもあります。専門とする芸術分野によってその働きは大きく違いますが、どの分野においても最も重要なことは、健康な歯と口をいかに維持し、メンテナンスしていくかに尽きます。

楽器奏者

 楽器の中でも特に管楽器は、口腔を楽器の一部として演奏を行うため、歯科との関係が非常に濃いと言えます。演奏する際に、楽器にあてる唇の形のことを「アンブシュア」と呼び、美しい音色を奏でる重要な条件となります。アンブシュアは、演奏される楽器の種類によって、トランペットやチューバなどのカップ型マウスピースを使用する金管楽器、クラリネットやサキソフォンなどのシングルリード楽器、オーボエやバスーンなどのダブルリード楽器、フルートやピッコロなどのエアリード楽器の、4種類に大きく分けられます。ダブルリード以外のアンブシュアでは、口唇とその内側にある前歯に楽器マウスピース部を押さえつける形となりますので、前歯に、虫歯や歯周病、咬合不正などがなく、しっかりとしている必要があります。
 一昔前のジャズレコードのジャケットなどを見ると、サックス奏者が楽器を斜に構えて演奏している写真が載っていることがありますが、これは格好つけているのではなく、前歯が抜けてしまったため仕方なく歯があるところでマウスピースを保持しているためだと考えられます。また逆に、管楽器奏者の前歯は、不自然な力を常に加えられており、咬合不正や歯周病のリスクに常にさらされていると言うこともできます。
 不幸にして前歯を失ってしまった管楽器奏者に対しては、演奏するための特別な専用の義歯が考案されており1)、筆者を含めたごく一部の歯科医師によって治療が提供されています2)。しかしながら最も重要なことは、若い時から管楽器奏者は歯周病のリスクが極めて高いことを自覚し、セルフメンテナンスと、専門家による定期的なメンテナンスを受けることに尽きると言えます。

俳優・声優などの音声言語表現者

 音声言語表現において重要なことは、意図して発話した音がきちんと音節(モーラ)として相手に伝わるかということと、音と音、言葉と言葉がはっきりと区別されつつも滑らかに相手に聞こえるかどうか(滑舌)の、2点が挙げられます。前者においては、特にサ行と歯列不正の関連性が古くから研究されており、とりわけ下顎前突(受け口)の人にとっては発音しづらい音とされています。現実に、下顎前突のアナウンサーはほぼ皆無と言える状況です3)。下顎前突を始めとする不正咬合は、小児期に顕在化しますので、矯正歯科に相談するなどの適切な対応を親が早めに取ることで、早期の治療が可能となります。逆に本人が成人し、身体表現や言語表現に関わる芸術家になると決めてから治療開始となる(残念ながら多くのケースはこれなのですが)と、数年にわたる治療期間中が表現者としての重要な時期に被ってしまい、どちらも断念せざるを得ないという状況になってしまうケースを幾度となく見てきました。子どもの健康な口を守り、未来の可能性を狭めないようにすることは、芸術家として自分が親になった際に、とても重要な責任だと思います。
 「滑舌」は、広く使われている言葉ですが、つい最近まで広辞苑にも載っていなかった業界用語でした。そのため、滑舌の科学的な研究は始まったばかりで、滑舌と歯に関連性があるかどうかは、まだはっきりとは分かっていません。口腔内は「慣れ」が比較的早い場所とされており、義歯など口腔を狭めてしまう装置を入れても、多くの人が2週間程度で使いこなせるようになります。私の個人的な印象ですが、滑舌の改善は歯科治療よりも訓練の要素が強いように感じます。歯科は公的保険が利かない治療方法も多く、高額な治療を勧められることもあるかと思いますが、全てが治療で治せるわけではないことを理解し、疑問に感じたらセカンドオピニオンを求めることも非常に重要です。

ダンスなどの身体表現者

 ダンスと歯科の関係については、世界的に見てもほとんど研究されていません4)。しかしながら「スポーツ歯科学」の分野においては、身体能力の向上と歯科(特に咬み合わせ)との関係が明らかになりつつあります。ボクシングの試合などで選手が口にくわえているマウスガードは、主たる目的はもちろん外傷からの保護ですが、それ以外にも運動時の咬合の安定化が計られることによってパフォーマンスが向上すると言われています。レスリング部の男子高校生49名を対象とした研究では、(スポーツ用品店で売られているような簡易的なものではなく)歯科医師が製作・調整したマウスピースを装着した群は、しなかった群に比べて、柔軟性・敏捷性・50m走タイムの3項目が有意に上昇したと報告されています5)。もちろんダンサーをはじめとする身体表現分野における芸術家は、顔の表情も重要ですからボクサーが使用するようなマウスガードを装着することはできません。しかしながらコンタクトスポーツではないダンサーは、審美性を損なうことのない小さなタイプのマウスガードを選択することが可能です。
 もちろん、一流の表現者は毎日の不断のトレーニングによって、極限までパフォーマンスを高める努力をしているわけですから、マウスガードの装着だけによってその能力が大幅に向上するわけではありませんし、場合によっては逆効果となる場合もあり得ます。しかしながら、咬み合わせに限らず、むし歯や歯周病など口腔内に何らかの不安がある状態は、きちんと歯科治療を受けることによってそれを改善する必要がありますし、また歯や口にトラブルを起こさないように、日ごろからセルフメンテナンスを心がけるだけでなく、歯科衛生士による定期的なプロフェッショナルメンテナンスを受ける必要があります。

健康な歯と口を守るために

 日本人が歯を失う大きな原因は、むし歯と歯周病の2つです。特に歯周病は40歳以上日本人の70%が罹患している国民病で、20歳代からの適切な予防行動によって防ぐことができる疾患です。グラフは、日本人の平均的な歯周病の進行パターンを示しています。縦軸が歯周病に罹っている歯の割合、横軸が年齢を示しています。35歳を過ぎると加速度的に歯周病が進行していくことがお分かり頂けると思います。特に喫煙者の場合、50歳で半数以上の歯が歯周病になり、どんどん歯が失われていく運命にあると言えます。
 歯周病の進行を食い止め、表現者にとって重要な歯を一生に渡って保っていくためには、ブラッシングによる徹底したセルフメンテナンスと、数ヶ月に一度の定期的な歯科医院でのメンテナンスが必要不可欠です。ぜひ信頼できる歯科医師と歯科衛生士に出会い、定期的に受診する習慣を身につけていただければと願っております。

1) Porter MM: "Dental problems in wind instrument playing", 1-12, British Dental Journal. 123(8)-124(7), 1968
2) 根本俊男:すぺての管楽器奏者へ ある歯科医の提言,音楽之友社,東京,1988
3) 茨城放送のアナウンサーに1人のみ、下顎前突者が在籍する。
4) Pierce P: "Dentistry and dance: report of a survey", New York State Dental Journal, 50(5): 298-9, 1984
5) Iwagami Y, et al.: "Effects of wearing a custom-made mouthguard on sports performance", International Journal of Sports Dentistry, 2(1): 41-56, 2009

制作:NPO法人芸術家のくすり箱 執筆:猪原健(歯科医師・歯学博士/敬崇会 猪原歯科医院) [2012.3作成]